村上春樹、ダークナイト、そして「僕等がいた」の文学

 

 今春、ある1つの大ヒット少女マンガが映画化された。そう、「僕等がいた」である。「僕等がいた」はゼロ年代に大ヒット少女マンガとして一世を風靡したが、大きく他の少女マンガと異なる。それは、このマンガに内在する文学性である。そしてその文学性故に少女マンガファンからは批判をされてきた。しかし、その文学性は、このマンガが世の中になぜ受け入れられたのか、現代の文学性とは何かを知るヒントとなる。また、その文学性は、日本を代表する国際文学作家であると同時に、大衆作家としても悪名高い村上春樹の文学性と重なり、映画史における最高傑作、「ダークナイト」とも重なる。今回は、村上春樹、ダークナイト、そして「僕等がいた」の文学性についてつらつらと書いてみたいと思う。

以下ネタバレあり

 村上春樹はずっと一貫して同じ主題で小説をを書いている。その主題のポイントは、「デタッチメント」と「コミットメント」という概念だ。みんなが共有する価値観(大きな物語)が機能しなくなった世界を、現代、後期近代あるいはポストモダンという。誰しもが共有する価値観が消滅すると、正義/悪の概念のような、社会全般で共有する道徳的、倫理的基準もまた消滅するため、人々はアイデンティティを失ってしまう。そこで現代人は、2種類の態度に出る。それが、「デタッチメント」と「コミットメント」である。正義あるいは悪なるもの、あらゆる政治性から距離をおいてニヒリズムに走ることをデタッチメント、自分を全肯定してくれる母性とセカイに引きこもり、対象に没入することをコミットメントと呼ぶ。例えば現代の選挙において、ある正当性を持つ対象に1票を投じれば、世の中がガラッと変わるなどという実感は当然のように持てない。そこで人々は、ノンポリだから投票に行かず政治性から距離を置きニヒリズムに走る(デタッチメント)か、別の小さな物語(オウムとか新興宗教)に依存して別の悪を仮想し、それに対抗するために現実に参加する(コミットメント)ことでしか正義らしきものを表明することはできないのだ。これを「性」つまり「セックス」で表現しているのが村上春樹なのである。これが「セカイ系」と呼ばれる物語論である。

 しかし、春樹のデタッチメント/コミットメントは時代の流れを捉えきれてないという批判が最近なされている。貨幣(グローバル化)とインターネット(ネットワーク化)の存在によって、誰しもが絶対にコミットメントしてしまう/せざるをえないからだ。例えば、コンビニで菓子買い、その商品名をツイッターで呟くだけで(ある意味政治的な)コミットメントになってしまう。つまり、春樹の物語でいうデタッチメント/コミットメントは、それらの態度によって生じるコスト(責任)を他者(母性)や外部(小さな物語)に転嫁するという、極めて男性的でマチズモ的な態度であるといえるのである。しかし、もはや現代に生きるものは常にコミットメントを迫られる。そして誰しもがコストを背負っている存在なのだ。

 「僕等がいた」において、主人公矢野元晴とそのライバル竹内匡史は、ヒロイン高橋七美をはさんで表裏にあるといえる。矢野は、最も愛した元カノの死、加えて矢野の父の死に永遠に囚われる母(大きな物語/過去の亡霊)に対するトラウマを抱えている。そのトラウマに苦しむ矢野は、恋人である高橋の人生に責任をもつことに正義を見いだせず、最終的に高橋を拒絶する(デタッチメント)ことを選択する。一方で竹内は、高橋への愛を貫き、守っていくことこそ(コミットメント)が正義であるという道を選ぶ。現代社会におけるデタッチメント/コミットメントの対比である。

 そして物語が進むにつれて矢野は、高橋に対して拒絶(デタッチメント)と没入(コミットメント)を反復するようになる。作中で矢野が自分で自らを表す台詞に次のようなものがある。

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−他人のせいだと理不尽すぎて許せねーと思うけど 自分のせいだと仕方がない と思う 腹も立たなくなる 楽なんだよ つまり ずるいんだ オレ− 

−おまえは 行け オレを置いて 行け 前へ 行け おまえだけは 前へ進め−

−シチュエーションとか関係ねーよ オレは高橋と二人だったら ここが実は金魚鉢の中だって言われてもいい 何一つ自由にならない 窮屈な箱庭の中でもいいってこと−

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 この3つの台詞は、デタッチメントとコミットメントという2つの態度を端的に表している。前者2つは、恋愛によって生じるコスト(自らのトラウマによる苦しみや母親によるプレッシャー)を、高橋を拒絶、つまりデタッチメントすることによって回避している。「自分のせい」という表現によって他者を拒絶する。つまり「楽」なのである。一方で、後者は反対にコミットメントすることによってコストを回避している。自分を全肯定してくれる母性的な対象(この場合、作品後半で同棲を開始する山本由里)と、あなたとわたしだけのセカイ、つまり「金魚鉢」に没入することで、コストを回避する。この2つの態度の反復は、春樹的「セカイ系」の物語への批判に対して、原作者が苦悩する姿が見て取れる。

 この矢野による2つの態度には、前述した春樹への批判がそのまま当てはまるだろう。つまり、高橋を拒絶するにしても、彼女に没入するにしても、恋愛に対するコストを負うのは必ず母性的な他者であり、きわめて男性中心的、マチズム的な態度といえるのである。そしてこの時点では、誰しもが責任というコストを背負わざるを得ない「受動的主体」なのであるという、現代社会を捉えきれていないようにも見える。

 他方で、死んだ矢野の元カノの妹にあたる山本由里は、矢野を超越した存在として、高橋を苦しめていく。山本は、矢野・高橋の意志を完全に無視しながら、好意を抱く矢野との関係を持つことに固執していく。ついに山本は、様々な手を使って矢野と同棲するところまでこぎ着けるのである。この山本の態度は、これまでの文意でいうコミットメントでもデタッチメントでもない。単に自己目的化した行為である。つまり、コミットメントやデタッチメントによって生じるコスト(責任)を他者に転嫁するのではなく、自らの欲望のみに従って行動しているのである。その目的もまた自らの快楽のためのみである。

 ではなぜ山本が矢野を超越するか。これを解釈する鍵が、映画「ダークナイト」に登場する映画界最強のヒール、ジョーカーに隠されている。大きな物語が消滅した世界において、行動が自己目的化している存在というのは最も強い。映画「ダークナイト」におけるジョーカーの悪事は、国家転覆(大きな物語)や特定の対象を攻撃すること(小さな物語)を目的に行使されない。ジョーカーは完全な愉快犯なのである。つまり自らの純粋な欲望に基づいて暴力を行っている。国家のために暴力を行使する正義の検事ハービー・デントや恋人や市民のために暴力を行使するバットマンを、自らの欲望のために暴力を行使するジョーカーは圧倒的に超越する。そしてこの「完全に自己目的化した態度」こそ、コミットメントとデタッチメントを超越する態度なのだ。

 「ダークナイト」は、従来のアメリカンヒーロー映画のように、正義が悪を倒すことで勝利を描いていない。つまり、バットマンは最後までジョーカーに勝利しない。バットマンが、ジョーカーの悪事をすべて自分の責任として受け入れ、社会から恨まれる悪者として生きていくことを選択して映画が終わるのだ。つまりその選択とは、現代社会におけるコストを回避せず、前提として生きるという選択だ。

 当初「僕等がいた」ファンの間でおこなわれていた結末予想は、矢野が高橋に対して、デタッチメント/コミットメントを貫く、つまり2人は結ばれないというものであった。春樹的「セカイ系」の作風を最後まで通すというものである。しかし、ファンの予想は裏切られた。まさにどんでん返し、矢野と高橋は結ばれたのである。

 この結末はもちろん批判的に消費された。従来の少女マンガのような、正義は悪に勝つ、あまりにも現代社会を反映していない表現と解釈されたからである。しかし、私はそう解釈しない。なぜなら矢野は、自らのジョーカー的トラウマのコスト(責任)を、春樹の作品がそうであるように、他者に転嫁することで、高橋と結ばれたのではなく、そのコストを前提として、つまり「受動的主体」として生きることを選択したからである。そう、「ダークナイト」においてバットマンがそうした様に。

 映画「僕等がいた」を観た友人がひとこと、「登場人物がみんなメンヘラだった」と言った。まさにその通り。村上春樹、ダークナイト、そして「僕等がいた」における登場人物は、皆、過去のトラウマに縛られている。つまり、フランスの哲学者ジャック・デリダのいう「亡霊」に囚われているのだ。これはまさに現代的、ポストモダン的である。現代に生きるわたしたちは、いつも「いま現実にそうではないが、そうであったかもしれないこと」に囲まれている。

 しかし、「僕等がいた」は、そんな現代社会における愛とは何か、ということを教えてくれる。それは、人生の一回性を認めること、過去の「亡霊」を前提として、「受動的主体」として生きることなのではないか。それが、いまを生きる、わたしたちがここにいる、ということなのではないか。

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−僕達は確かにここにいた ここで生きて 彼を好きになって 君を愛して 沢山のはじめてと 数え切れない気持ちを貰って 強さも弱さも知って 確かに …確かに 私達は ここに いたのです− 矢野元晴/高橋七美